ヴィルヘルム・ヴント(1832-1920):簡略な人生史
 
       ヴォルフガング ブリングマン(ウィンザー大学)
       ウィリアム バランス(ウィンザー大学)
       ランド エヴァンス(ニューハンプシャー大学)
 
ヴントは心理学史における最高峰である。留保条件なしに、彼は
「心理学者」と正式に呼ばれた最初のひとである。彼以前にも心
理学はあったけれども、「心理学者」はいなかった。ヨハネス・
ミューラーは生理学者だったし、ジョン・ステュワート・ミルは
論理学者で経済学者であり、ロッツェはメタ物理学者であり、ヘ
ルムホルツは生理学者であるとともに物理学者であり、ベインは
実質は心理学者であったとしても公式には論理学者であった。フ
ェヒナーは心理学を唱えた最初の物理学者であったが、彼の主たる
意識は哲学にあった。ヴントは哲学を主宰しつつ彼および世界の
主たる眼中で言うと、最初にして最大の心理学者であった。我々が
彼のことを実験心理学の「創設者」と言うとき、彼が独立した科
学としての心理学の理念を促したこと、また、彼が「心理学者」の
間で傑出した人物であったこと、これら2つの意味を持っている。
 
E.G.ボーリング
 
 ヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴントは、1832年8月16日に、ライン、ネッカー両河川の合流する付近の小さな村ネッカラウに生まれた。彼が生まれた頃、この村はバーデン大公国の統治下にあった。たぶん大事なのは、この時代のバーデン大公国は統治形態においても知的風土においても最も自由な国だと見なされていたことである。
 ヴントは彼の両親の4人目の子どもとして生まれた。だが、彼の子ども時代は、彼は孤独だったと記されている。最も年長の兄弟のルードウィヒ(1824−1902)は彼より8年年上で、ヴントが2歳にも満たないとき、ハイデルベルクのギムナジウムに通うよう送られていた。残る2人の兄弟は、彼が生まれる以前に乳幼児期に死亡していた。興味深いのは、そのうちのひとりにもヴントが生まれる以前にヴィルヘルムと名付けられていたことである。
 ヴントの父マクシミリアン・ヴント(1787−1846)は、様々な田舎の教区でプロテスタントの司祭だった。後にネッカラウに越してきて、そこで彼はその妻マリー・フレデリックと出会った。その子どもから見た父は、少しお金に気前の良いところがあって、陽気なひとに映った。両親はともにひとを楽しませるのが好きで、社交的であることを好み、母親は買い物で父親を悩ませるほど表向きの比較では「バーゲン狂」だと記されている。ヴントは彼の社交性のもとにあるのは両親に見て取れ、自分に金銭感覚がないのは父親からの遺伝であると告白している。
 ヴントの先祖たちは反宗教改革でオーストリアを追われた宗教亡命者たちで、この家風により、18世紀初期にそう言った中で、神学がはじめのうちの職業だった。彼の祖先の内2名はハイデルベルク大学の学長に選出され、他の者たちには教会における学問への関心と成功、また、世俗的な歴史・経済・地理でのそれが見出される。彼の母の家系は、それらの自然科学者、物理学者、政治家として良く知られていた。学者らによると、ドイツ国内のもしあったとしてもの家系図には多くの知的な活動家・生産的な人物はヴントのようには存在していない。
 ヴントの初期の回想では、父を追いかけて階下に転落したと言う。彼はそれから80年以上経過しても周囲が真っ暗で歩を進めると彼は頭をぶつけたことを彼はまるで今のことのように生き生きと思い出せたのである。その次の回想では再び父とのことが語られた。ヴントが4歳の頃、家族はハイデルサイム村に転居し、2年後に文法の学校に入学した。一年次の時彼は既に彼の若者時代の特徴でもある、大変な夢想家だった。あるとき彼の父が授業参観で彼のクラスに来たとき、彼の不注意さに怒り、彼の顔を撲った。この手痛い記憶は、日頃の彼に対する父親の態度との顕著な対比において、彼の中に位置づけられている。と言うのも、彼の父親像はしばしば目こぼしされてペットの名前で呼ばれたりはするが、優しいひとだったと彼は記しているからである。これに対して彼の母は、彼の教育に主たる責任を負っていたので、必要と思えば体罰を加えることをためらいはしなかった。
 ハイデルサイムでの日々は、特にヴントにとって孤独な時代だった。彼の唯一の盟友はと言えば、彼より少し年上のほとんど話せない発達遅滞の少年で、「どこまでも優しかった」。加えて、毎日訪れてくれるごく少数の大人たちと接触があるくらいだった。彼のお気に入りは、冒険物語や長めのお話が載っているブックバインダーで、この若い夢想家にはことの外魅力的だった。そのブックバインダーはボロボロではあったが、ヴントのように「司祭の息子」だった。ヴントはまた、田舎のユダヤ人行商の一家に引きつけられた。その家族はときにユダヤ教の礼拝所に彼を連れてきてくれたり、サコット(礼拝所のお祭り)の儀式に彼を招いてくれたりして、彼らのような休日のお祈りをすることには、深く人間の尊厳を印象づけられた。
 畏敬の念を起こさせはするが、とても刺激的な人物は彼の母の父ザハリアス・アーノルド(1767−1840)で、定期的にハイデルベルクを訪問した。ヴントはこの彼の祖父をとても明晰な人物だと見ており、この祖父はひとはみな厳格な日常の予定に適応すべきだと言い、彼の成人した息子や娘でさえ子ども扱いした。この祖父は明らかに強くヴィルヘルムの教育に興味を示した。彼はヴントとともにハイデルベルクで長旅をさせ、その間この町の歴史を説明し、景観の重要性について説いた。たとえば、2人でこのエリアで最初の鉄道の駅の建築を観察したり、一番列車が入線してくるのを見ていた。なおもひとは次のような印象を抱くだろう。この秩序を愛する老人に深刻に立ち向かうべき立場にヴィルヘルムは否が応でも直面した、と。
 2年生の後、ヴントの父親は彼の教育を若き教師のフレデリック・ミューラーにヴントが12歳になるまで任せ、個人的に教えを受けた。ヴントとこの若き司祭の間には、とても親密で愛に満ちた関係が展開した。ヴントは、自分の父母よりもこのメンターの方が親密だったと述べている。結局ミューラーがミュンゼスハイムに自分の教会を与えられ、1844年の秋にヴントが中学校に入学するまでの間だけこの教師と時を共にすることを両親が認めたことを知って、彼の後はどうなるのか悲嘆に暮れた。
 13歳のうちに、ヴントはブラフサフ近くのカトリックのギムナジウムに例外的に簡便な入学試験で4年間の在学を認められ、入学した。彼の気後れに、ここで1年だけ留年したと言うことがある。後年、彼はこの時期を振り返って、このようなしでかしは、教師にも手の付けられない度を超えた際限のない夢想のせいだと述べている。新たな学校で、この内気な司祭の息子は、彼が「田舎者」と呼んだ、司祭になるために上昇志向の他の生徒たちとの深刻な関係上の困難に悩まされる。彼のホームルームの教師は、いつも彼の頬が一日中腫れ上がるほど平手打ちをした。彼が最も慕った教師でさえ、クラスのみんなの面前で、「教育されたひとの息子は自分自身でカレッジに行くことに義務感を抱いたりはしない」と明らかにヴントのことを舌に包んで、「良くて郵便配達員が適格だ」と指弾した。あるところで彼は耐えられず学校から自宅近くに逃げたが、母親に学校に連れ戻された。安心を失ったヴントは、そんな叱責と軽蔑に、憤慨と自分は何にも値しないと言う意識に苛まれた。彼は1845年の冬を「煩悩の学校時代」と呼んだ。
 彼の留年の後、彼の父と母は彼をハイデルベルクのリュケイオンに通わせると決めた。これはたぶん、彼の父がかかわった最後の大きな決断であって、なぜならば彼がこのリュケイオンに在学中に彼の父は58歳で亡くなったからである。ヴィルヘルム・ヴントは、高校に当たるハイデルベルクのリュケイオン第4学年を一再なく修了し、後に何も積み残すことなく卒業した。彼はそれまでの学校生活の大半において平均的な生徒だったと回想しているが、この頃彼には重大な変化が起きた。彼は度を超えた際限ない夢想をとうとうコントロールできるようになったのである。彼はその兄ルードウィヒ、年上の従兄弟、2人の産業カレッジの学生に、彼に「行使できる確かなコントロール」が備わったと報告している。これはたぶん、「内気で不安な」少年であることがやめられ、彼の人生で初めて同年代のグループ内の多くの親密な友達ができた、と言う点でとても大きな重要性を持っている。このときの気分を彼は「生まれ変わったかのよう」な感覚だと述べている。学校自体は相変わらず好まなかったし、彼の高校教師のほとんどは無能な詭弁師に彼には映っていた。だが彼は、ここから知的関心が発達してきて、貪欲に読書をし始めた。彼の最初の関心は、1848年から1849年にかけてのドイツ革命の詩人はもとよりシェークスピアやドイツ古典に絡む歴史的な、およびロマンチックな小説にあった。ハイデルベルクでふたたび彼に悟りを抱かせるような若者と出会った。それが彼の教師で比較言語学の教授として有名になったベルンハルト・ユルク(1825−1886)なのであった。老いてもなおヴントが良く覚えているのは、ユルクはときどきヴントの随筆をクラスの良いお手本として追唱するようにと読んでくれたことは、彼の誇りだったことである。このとき彼は史的言語学者になることについて古典言語と思考を豊かにすることに惹き付けられた。しかし彼は、教師になると言う考えを拒絶した。
 1851年にヴントがリュケイオンを卒業した頃、彼も彼の母も非常に貧しいハイデルベルクの未亡人ペンションで生きることに精一杯だった。これはよく司祭の息子には通常利用可能なのだが、彼は学業不振で奨学金を受けられなかった。なので、大学教育のための資金調達は厳しい挑戦だった。それに加えてヴントにはこの人生で何をすべきかについての考えが何もなかったようである。自宅を離れたいのともっと自立したいと言うとても強い欲望が彼にはあったので、唯一自然なことはチュービンゲン大学の医学部に行く機を受け入れることだった。そこには彼の母の兄弟で高く尊敬していた解剖学と生理学の教授であるフレデリック・アーノルドがいた。彼は標準的な医学予科生としてサインをし、公式に履修できるのは哲学だけだったわずか一年間だけのことを覚えていた。後の彼の回想には、若き彼のチュービンゲンのことを、「町中を牛とガチョウが歩き回っている田舎町」だったと述べている。彼が最初にこの町に来たとき、「バロン男爵」が強調されて、年老いてもその記憶を楽しんでいて、彼が大学生であると言う身分を喜んでいたようである。そして彼は、「スービア」と言う友情で結ばれた切磋琢磨し合うエリートのメンバーになったが、友情に満ちた生活と彼のクラス仲間たちよりは、コンサートに演奏、すべての小説がある図書室に心奪われていたように思われる。
 1852年の8月には、鉄道と船でハイデルベルクに戻った傍らで、若きヴントには将来について悩む十分な時間があった。彼はこの自由な一年を振り返って、有用なことはほとんど学んでいないと言うことを強く感じており、望み通りにしたければもう一度はじめからやり直さねばならないと理解した。
 
司祭の未亡人である私の母は、極度に生活手段を制限
されており、家族会議で4年のうちに私の医学の勉強
を修了せねばならないことを決めた。この間一年が経
過したが、そのための予算は実質既に超過していた。
無視してきたことを、巨額の学費を用立てている間に
3年だけを残していた。
 
 彼は3年以内に医学の訓練を修了はできるが、時間を最も有効に使えるような働き方を改善せねばならないことも分かっており、彼の心の中にはそれらの暗雲が立ちこめた。
 しかしヴントは、この要請に見事に応えたのみならず、彼自身も驚いたことに、1855年に終えた医学組織委員会試験で一位にランクされた。彼は彼自身の研究を勤勉に応用し、さらに重要なことに、これらの年次のうちに彼の科学的関心が芽吹いてきたと証言している。著名な化学者であるロバート・ブンセン(1811−1899)の影響を受けながら、彼は最初の研究プロジェクトを実行した。それは可能な限りにおいて、すべての塩分の摂取を自分自身から剥奪すると言うものであった。この研究における独立変数は、彼の尿の塩分濃度の変化だった。この研究は研究後すぐに出版され、引用さえされたことから、ヴントはこの「ほとんど重要ではない」実験を後のいかなる彼の研究よりも楽しかったと述べている。1854年に実施された彼の最初の独立した研究は、呼吸における迷走神経と回帰神経の切断の効果を調べると言うものだった。彼はこの研究を念入りな装置なしで自宅で完成させた。生体の解剖は気持ちの良いものではないが、彼の母は公的に徹底的に彼を支援した。彼はラテン語とドイツ語でこの研究を結果としてまとめたが、医学部を驚かせ、賞を受けた。
 医学部組織委員会の試験を終えて、ヴントは彼の親戚からの強いプレッシャーの下で、まず軍事物理学者との約束に悩んでいた。空席がなかったので、束の間の間、彼の公式の教師であるエヴァルト・ハッセの臨床助手としての雇用を受け入れた。ハッセはハイデルベルク大学病院の指導者のひとりだった。ヴントはその6週間を彼が医学を実践する上で有用なことを学べる唯一の時だと思っていた。彼の患者たちはと言えばまず、コミュニティの中でも最貧のひとたちが来て、その中には決まって街娼依存の者もいて、若い医者であるヴントもしばしば忍耐を試された。ヴントは彼の人生物語において、ある日夜中に何度も起きてしまい彼が半分感覚麻痺になったのは、以前彼が診ていた患者を、麻酔薬の準備と言うよりむしろヨウ素をたまさか投与してしまってほとんど殺してしまうところだったと言うことを経験したからだった。だが、彼の研究は些かの失敗もなく続けられた。ヒステリー患者の触覚の感受性の観察は、彼をエルンスト・ハインリッヒ・ウェーバー(1795−1878)の公式を試すように彼を導いた。そしてヴントは、ウェーバーのことを「心理学へと続く実験的な作業の最初の起点」だと見なしていた。そこでは、この探求の部分を記述し、彼の医学論文−1855年11月10日に医学修士の学位を首席で取得した−で供せられた。
 そして、ヴントは一学期の間、生理学を学ぶためにヨハネス・ミューラー(1801−1858)とエミール・デュボワ・レイモン(1818−1896)のいるベルリン大学に通った。ハイデルベルクでの彼の経験以降、これら著名な学者が研究している環境は、ヴントに訴えかけるものを持っていた。この、ある者たちにとっては落胆するような試みの最も特筆すべき結果は、彼がそのライフワークを医学よりも生理学にしようと言う決断であった。彼が彼の母に宛てた手紙には、まず生理学を研究したいこと、必要な支援方法としての大学でのキャリアにしか関心がないことが書かれていた。
 彼はすぐにハイデルベルクに戻ると、彼自身の講義ができるように、2つ目の博士論文にとりかかった。彼が講義をする者になれる以前に、卒業から2年の歳月を待たねばならなかったので、彼はそれを拒絶した。だが同年12月には学部が明らかにその態度を変えた。学部は彼の最初の論文である修士論文を収受して、彼の仕事として試行的な講義の許可を出し、公的な「三論文」の甲斐あって、その後は1857年2月5日に彼は公式に大学教員になり、1857年の夏の間、実験生理学の彼の最初の講座を依頼することに許可を出した。
 その講座は彼の母のアパートで4人の学生を相手に開かれた。実験や実証を伴う6週におよぶ講義で、彼は生理学の全容をカバーするよう試みた。この講義の初期に、ヴントは彼の言葉を借りれば「突然の激しい肺出血」に襲われた。その出血は一日中続き、彼の具合は悪化した。相談相手の物理学者は彼の死期は近いと思い、彼の病が深刻なものであると悟ったヴントは彼の兄を呼び寄せ、遺書を用意するよう願い出るほどだった。彼の死にも似た主観的体験は、「完璧に穏やか」なものだったようである。この危機のインパクトは後に彼の展開した一般哲学の長大な議論には、できることなら意識的に死にたいと言う彼の生涯の長らくの願いも含まれていた。彼はしばらく大学を休み、彼の肺病を回復するためにスイスのアルプスで学生時代を送ったことを思い出すのに時間を使った。
 病から回復してきていたヴントは、新たに創設された生理学のインスティチュートで、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821−1894)の助手としての契約に同意した。1858年の8月、彼は賞与としてのポジションに就き、年間300グルテンと言う控えめな給料を受け、この仕事の契約は1864年までであった。心理学史家の間では、ヴントとヘルムホルツの関係は、発想の宝庫だと言われている。たとえばスタンレー・ホール(1844−1924)は広く文献を渉猟して、ヴントは彼に数学の才覚がないためにヘルムホルツに解雇されたと報告している。が、これは正しくはなくて、ヴント自身の文献を広汎に調べていないゆえのことである。ヘルムホルツがヴントの教育スキル、出版物、分けても彼の研究法の統一性を高く評価していた数年の期間を超えてヴントを推薦するとても好意的な数通の手紙を彼は書いていた。ヴントはヘルムホルツについて、その時代のハイデルベルクで最も傑出した自然科学者だと見ていた。しかしながら、ヴントがヘルムホルツとかかわっていた6年間ではあったが、ヴントは社会環境において幼い人物として扱われていたと解しており、それゆえヘルムホルツとは決して親密にはなれないと感じていた。加えて、ヘルムホルツの助手に課せられた実験室的な決まりとして、ヴントは彼自身の通常の講座を申し出ており、1859年が初版の「人類学」、1862年の「自然科学としての心理学」が含まれていた。
 1863年から1864年の大学年度には、ヴントは自身の雇用を続けなかった。雇用と言うのは、彼の自宅の生理学のインスティチュートと創設した小さな実験室のことで、彼の最初の生理学と医学物理学の教科書の収入で持ちこたえてきたものだった。彼はしかし教えることは止めなかったし、生理学の研究も止めなかった。と言うのも、このとき彼は助教授という肩書きを賞与されたからである。これが意味するところは、彼の地位は向上したものの、明白に定収入も定職も彼にはなかったと言うことである。
 ヘルムホルツの下を去ってすぐ、ヴントは政治的に活発になった。彼はハイデルベルク労働教育組合の会長に選ばれ、その仕事のために広く旅をし、一般的な科学的話題を講演した。この期間中、彼は労働者の地位向上を求め、彼らの自由と尊厳を確信する空想的社会主義者だった。1866年には、ヴントはハイデルベルクの亡くなったメンバーの言葉を借りると、バーデン議会の第2議場で職責を全うすると公約し、1867年には、彼は進歩党において当選している。彼の政治的キャリアの中では、彼は立法を発起し、宮廷における大学生の特権的な地位を終わらせた。彼はまた、議論によって公立学校の政教分離を支持した。彼は1868年に彼の議席を退いた。それは、彼が政治的キャリアは「全人的」なものでなくてはならないと思い至ったことと、彼の一義的な研究への関心とそれは相容れなかったからである。同年、彼の母は71歳で死去した。
 ハイデルベルクで費やしたヴントの残りの6年の間に、彼はとても精力的に教鞭を執り続け、出版し続けた。1871年の夏には、彼は定常的に給料の出る特別教授に任じられ、13年以上続けてきたヘルムホルツの助手としての給金を合わせると、収入の二重取りの状態になった。特別教授に任じられることについては、公的な宣誓にサインすることと「人類学」と「医学心理学」の講座で教えることが条件だった。これらの定常的な仕事に加えて、1871年の夏学期にヘルムホルツの弟子として生理学の教鞭を執った。ヘルムホルツは、招聘に応じてベルリン大学に移籍した。ヴントとヘルムホルツでは、受け取る給料の額面に大きな開きがあって、ヴントの稼ぎはヘルムホルツの4分の1でしかなかった。このことは、実質ヴントを覚醒させた。現実に、彼の稼ぎは大学年度で得られる額よりも夏休みに実質教鞭を執って得られる額の方が大きくなった。経済的に高揚したひとつの結果として、彼は40歳にして彼の経済的援助者であったソフィー・モー(1844−1912)と1872年に結婚している。
 ハイデルベルクを離れた彼は、1873年に「生理学的心理学の基礎」の第1巻を、次いで1874年にその第2部を出版している。この古典的な仕事は実質的に拡大され、第6版に及んではいるが、ヴントはこの分野の他の公式の講座を教えることはなくなった。 同年、チューリッヒ大学の「帰納的哲学」の主席にお呼びがかかり、彼は結局これを受け入れた。この比較的歴史の浅い大学は、先行きが明るい若い学者が古参のドイツの大学でより高名な地位に就くまでの当時の言葉で言う「待合室」だと見られていた。ヴントはこの伝統に良く従って1年だけチューリッヒ大学に奉職し、すぐにライプツィヒ大学に籍を変えた。ライプツィヒには内面的に賛成はしかねたが、ほとんど10年も空席のままのポジションがあって、生理学で大方の研究を遂げた実験物理学者を哲学の教授として雇うこの古参の大学は、敢えてそうしていたのである。興味深いのは、いずれの仕事も個人的な関係で得たものであって、大学での業績はあまり関係ないとヴントには映ったと言うことである。ヴントは1875年から1917年までライプツィヒで教鞭を執った。ライプツィヒでのヴントは、生理学、哲学、心理学、言語学、そして人類学的心理学(民族心理学)について夥しい書物を著し、推計では50000ページは書いたと見積もられる。ヴントは彼の人生の大部分について暗く、彼の莫大な読書量と執筆量を他に依存していることを思うと、彼の業績はきわめて特筆すべきだと言わざるを得ない。
 ライプツィヒでのヴントは、実験科学としての心理学の発展の礎を築いた。たぶんそれらの歳月で最も重要な業績は、彼の有名な心理学研究室の創設であり、心理学の実験的研究が謳われている。この仕事は、本当に目立たずに始まった。彼がライプツィヒに赴任したとき、「休憩室」の建物の小さな空き部屋を単に割り当てたに過ぎない。そこには、彼がチューリッヒから持ち込んできた装置を貯蔵していた。その部屋は以前講義室として彼が管理していて、4年後の1879年に彼の「個人的研究室」として実験室がオープンし、1881年頃までには彼は私費での運営から手が引けるようになった。さらに2年も経つと、この実験室は大学カタログに掲載され、公式なものとして認知されるようになった。この認知は、ヴントがブレスラウ大学に移籍を申し出ただけでやってきた。ヴント初期の学科生の中で、いくつかの点で最も傑出した学生として、エミール・クレペリン(1865−1926)とジェームズ・マッキーン・キャッテル(1860−1944)が挙げられ、彼らなりの業績を残した。述べられた説明と現状の素描としては、ティチェナーの、実験心理学の最初の現実の実験室はいかに初発的なものか、と言う一節がある。後に程なくして、ヴントは同じ建物内の薬学生の空き部屋を、次いで1892年に彼の仕事部屋を「厳しい家」、あるいは「もっと厳しいシュタインウィッヒ12」と呼ばれた3階の11の部屋に移した。これらの設備は、そもそも産婦人学科の建屋で、音響研究のための読書室、ショップ、そしていくつかの一般的な実験室を持っていた。すべての部屋は電気の配線を備えていた。1897年の秋には遂に、ヴントは心理学科の研究室を彼の見立てに従って設計され、ドイツその他の国で他の実験室のモデルとなった新築の建物に移すことができた。しかしそれは、第2次世界大戦で破壊されてしまうまでのお話である。
 1856年から1917年までの教師としての60年以上に、ヴントは利用可能な記録によると24000人以上の学生を教えた。ハイデルベルクにおいて、たった4人の学生を教えることを始めて、いくつかの学期には生徒はひとりもいなかった。ライプツィヒでの最初の学期には、ハイデルベルクを離れる直前のほぼ4倍の生徒が彼の講座の履修を届け出た。学生たちはドイツ全土からのみならず、アメリカ、ロシア、日本からさえもと言った具合に多くの国々からヴントの下で学ぶためにやってきた。彼の講座の入学者は15年ごとに区切ると、1912年に620人を記録し、倍増したように思われる。その一方でほとんどの学生は1、2の彼の人気のある心理学や後に哲学の講義を履修した。そして彼は200を超える博士論文を指導した。彼の博士課程での学生のリストは、現代心理学の歴史の指標のようにも読める。ヴントは学生たちよりもかなり年上だったが、彼らとの親密な個人的関係があった。彼は上級生たちを自宅に招いてパーティーを開き、大方の日曜日には、彼の助手たちを夕食に誘った。毎回のゲストであったティチェナーは、ドイツでのクリスマスに、ヴントとその家族と送ったときのことを喜びを以て覚えている。40年以上に渡って彼らの関係に影響を受けた著名な精神科医のエミール・クレペリンとヴントの間に特に親しい友情が芽生えた。記憶に新しいところでは、1913年にヴントのもとで学位を取得した、オレゴン大学を退職して生きたアンナ・バーリナー博士がいて、彼女の愛らしい回想によれば、彼女にとって博士になるための口頭試問のとき、どれだけヴントは彼女をくつろがせようとしたことか、そのおかげでいかに簡単にヴントにより博士号を取得した最初の女性になれたのかと言うことを述べている。また、心理学的に、あるいは哲学的な問題でヴントが賛成しなかった同僚や多くの公式な彼の学生と親密で友愛に満ちた関係をヴントは維持した。彼の公式な学生で最も特筆すべきなのは、ヴントの心身関係説に鋭く同意しかねたヒューゴ・ミュンスターベルクである。彼らの有名な論争の後に、はっきりとチューリッヒ大学のポストに就くのをヴントが推薦したばかりでなく、ミュンスターベルクが死去した1916年までの短い時期にも、第1次世界大戦の中にあっても規則的な交流があった。心理学の分野でどんなに見解の相違があっても、ヴントの70歳の誕生日にミュンスターベルクの祝福にヴントが応えた以下のノートがたぶん最も明白にヴントがミュンスターベルクを高く尊敬していたことを物語っている。
 
        今ではいつものように心理学にかんする我々の見解
        は違っているけれども、共同研究者として見解を共有
        し、あなたが人生を振り返って確信するように、私は
        次のことを良く評価することができる。論敵を前にし
        て私の横に立っていてくれたのみならず、どれだけ私が
        義務的であっても、私の意見について厳しい批判を受
        けることで私が正当化を強いられても、できることなら
        私ができる限り安心していないことを安心できるように
        なるためにどうするのかが私は分かると信じる。しか
        し、それが支持できないと証明された部分では、私は
        それを告白し、認めるし、それが今日私に要求されて
        いる。論敵たちの間で、賛成してもらえないことは、
私にとって多くの点で有用である。まずもって敬愛する
同僚であるあなたへ。
                  
 心理学の応用について、ヴントが精力的に反対したのはエルンスト・モイマン(1862−1915)であったが、彼はかつてライプツィヒで教授資格を得ており、彼は教育心理学の学科の実験室の展開を全面的にサポートした。同様に、フェリックス・クリューガー(1874−1948)も彼の発達心理学についての著述の中で、ヴントには多くの点で対立したが、ヴントの相変わらずの寛容の姿勢あって彼の推薦で1917年にヴントの退職後のライプツィヒの実験室の主幹になったのである。
 ヴントは彼の学生たちのみならず、彼の同僚ともまた親密さを享受した。彼が休日にハイデルベルクに行くときはいつも、何人かの高校時代の友人と親しく連絡を取り合っており、彼らを訪ねて行った。彼は自分は精神物理学者であるハインリッヒ・ウェーバー(1795−1878)とグスタフ・テオドール・フェヒナー(1801−1887)を幸運なことに個人的に知っており、彼らの家の客になった。もっと最近では、彼との関係はエドワード・シュプランガー(1882−1963)ともあった。シュプランガーは哲学者であり、彼には「人文科学的心理学」と言う主著があって、彼は1911年にライプツィヒ大学の招聘に応じた。他の親しい友人の中には、著名な文化歴史学者のカール・ランプレヒト(1856−1915)、法哲学者のカール・ビンディンク(1841−1920)、進化論者のエルンスト・ヘッケル(1834−1919)、学芸員のハンス・リンドー(1875−1963)とその関係人物であるちょうど著書を世に問うたマルチン・ブーバー(1878−1965)と表出彫刻家で絵描きのマックス・クリンガー(1857−1920)などが含まれていた。
 おそらく最も魅力的な活写は、ヴントの最後の助手フレデリック・サンダー(1889−1972)の最近の自伝に描かれているヴントの晩年であろう。ほとんどの一般の心理学史では抜け落ちているヴントの個人史についての確かな情報に我々が負うところは大きい。サンダーは我々が抱く熟練したヴントの逸話、論争疲れ、良きホスト、良き祖父などについての詳述を活写した。サンダーにとって一番重要なことは、ヴントの午後の講義の後でヴントの研究がいつも提起することについての近しい会話である。
 
彼は自分の子ども時代と発達について話すのが好き
だった。誰も良く想像できないだろうが、ライプ
ツィヒでの彼の研究所の静かな幕開けについて思い
出している。彼の最初の助手ジェームズ・マッキーン
・キャッテルのことを思い出す。キャッテルは後に
コロンビア大学の教授になったが、ヴントはそれに
微笑んだ。「長い時系列の中で、君は最初にして最後
になるだろう」と言って。彼はまた自身の肺出血の
ことについて、重心の端っこに向かっての若い頃の
働き過ぎがそうしたのだろう、とも言っている。だが
彼はそのことが自由と平穏をもたらしたのだ、と。
彼は死は痛みなしに完全に意識的に迎えたかった。
 
 ヴントは88歳の誕生日の2週間後の、また彼の遺作「経験と認識」の序言を書き終えた8日後の1920年8月31日に亡くなった。「経験と認識」を筆者なりに訳すと、「私が経験したことと発見すること」とでも言おうか。なので彼の晩年は、彼が願ったように自分が死ねた一事に、また、彼の回想の作業に彼は満ちていたように思われる。
 
原典:Bringman,W.,Balance,W.,& Evans,R. Wilhelm Wundt, 1832-1920 : A Brief Biographical Sketch Journal of the History of the Behavioral Science, vol.11, Pp.287-297, 1975
(訳:西田篤史)