エプスタイン・S(マサッチューセッツ大学)《大学時代の論文翻訳シリーズ1》
アメリカンサイコロジスト誌 Vol.28,pp.404-416,1973(訳/西田篤史)
原著論文はこちら (スマートフォンでは表示できないようです)
 
 
 
              自己概念再考:理論の理論
 
 はたして心理学に「自己概念」の必要はあるのだろうか?ほとんど当初からこの問いの上にフィールドが分かたれてきた。行動論的見地からは、魂の概念と大差ないような「自己概念」には、神秘主義の香気がある。誰も「自己概念」を見ることも触れることもできず、誰もまだ仮説的構成概念として適切に定義できているわけでもない。これまでに提唱された定義は、有意な準拠体を欠くか循環論法になる傾向が認められる。結果、「自己」はIとMe、あるいは両者、あるいは自分に対する個人的な反応として定義されてきた。何人かの著者は適切な定義の絶望を感じ、何が「自己」であり何が「自己」でないかを「自己」は確かに知っていると同様という主張をするかとか、常識に訴えるといったアピールにより、明白に適切な定義を与えられない。オルポート(1955)はフレッシュスタートにあたって「プロプリウム」なる新語を唱え、「我々が特殊だとみている我々の生活の全層」であると定義している。ここでの困難はひとが、「自己」の同定をする人が本質的にその「自己」を同定していない限り「プロプリウム」を同定できないことにある。
ある事例は論理的な分析には権威的な主張の書かれた学習帳を見出す。これは著者が彼の知っている「自己」がスリップする概念なので、そんなときはその定義がうなぎのようなものになる。かくてサリヴァン(1953)はいう、
 
 
       私がセルフシステムについて語るとき、対人関係の理解
       がとても重要になってくる力動性について語っているこ
       とを明瞭に理解してほしい。この力動性は、説明概念で
       ある、そしてそれは物でも層でもなく超自我、自我、イ
       ドなどといった何かでもない。[p.167]
 
 その準拠体を特定することなく理解されうる概念が自我でもないダイナミズムだということを知ることをこの言葉は勇気付けている。
 もし自己がものでなく、概念として定義されえないとすると、たぶんすべてが適用を免れうるであろう。自己概念の提唱者のひとりオールポートが、このような結論に同意していることは特筆されてよい。彼は自己概念に準拠して説明されてきたどのこともそれなしに説明でき、この言葉を残す唯一の利点は、さもなくば無視されてしまうであろう心理学の看過できない領域に注意をひきつけておくことだという。
 
 
       もし心理学の地平が今あるよりはより専門的だとすると、
       私は、自己知識とか自己像とか自我高揚、自我拡張とかの
       確固とした複合形態を除いて自己とか自我とかの概念は、
       人格理論に必要ではないと示唆することにあそんでみよう
       と思う。[オールポート、1955, p.56]
 
 以上のような議論にも拘らず、「自己概念」は有用な説明的構成概念であるばかりでなく、どうしても必要な概念であると信じるさまざまな学派が徴表しているような行動科学者の数々が存在する。このなかにはジェームズ、クーリー、ミード、レッキー、サリヴァン、ヒルガード、スニッグとコームズ、ロジャーズが含まれる。より興味深いことには、これらの「自己」理論家は、個人の行動が理解されうる唯一の展望をそれは与えるように、「自己概念」は心理学におけるもっとも中心的な概念であると現象論者として「自己概念」を考え、そういうものだとして同定した。このような立場からは客観的で科学的な、そして自己概念を含まない心理学の発展を試みる行動論は物理科学を真似るだけのむなしい実践以上には何も表しえていない、とした。
 説明概念としての自己概念に不同意の者もいるのではあるが、しかし自分があるという主観的感覚が重要な、その研究に保証を与える経験的現象だということに議論の余地はないであろう。多くの他の現象と同様自己の主観感覚は、それがなくならないかぎり当然の地位を占めている。後に不本意なことが起こるとひとは脅威の感情に圧倒されるという。
このことはローレッタ・ベンダーにより分裂病の少女の反応を彼女の心理治療者に会っている際の次のような記述においてよく例証されている。
 
       5歳のルースは心理治療者のそばに来てこういった。
       「あなたは子取り鬼なの?あなたは私のお母さんと喧
       嘩するつもりなの?あなたは同じお母さん?あなたは
       同じお父さん?」そして最後には恐怖のあまりに強く
       泣いた。そしてこういった。「私、私以外の何者かに
       なるのが怖い」[p.135]
 
 「自己を持つ」という感覚状態の実在に議論の余地がないとしても、説明概念としての「自己概念」の価値上の拡散的諸見地がなければならないかどうかに関して問題は残る。心理学は2つの学派、すなわち一方は自己概念は中心的とする立場と、それは不必要だという立場を残すように運命付けられているのであろうか?望むらくはさらに広い枠組みのなかで2つの接近法が統合できる、ということである。この論文はそれをまさに成し遂げようとするものである。私が述べたいのは、「自己概念」は現実まったくの「自己概念」ではなく何かそれに近いものである、という困難を抱え続けてきた、ということである。適切な概念が「自己概念」を成立させるとき、てんでばらばらだったジグゾーパズルの各ピースが、行動主義者にも現象論者にも同様に満足のいくような場と形態にと小奇麗にフィットしてゆくのを見ることになるだろう。では、うまくはまる素材の諸統合をもってすれば、不条理な自己証言同様に一度提示されれば読者がたぶん解決に応えるであろうと期待しよう。
 
 
「自己概念」の本質
 
諸家から見た「自己概念」
 
 まず、諸家からみた「自己概念」の見方を考えることが助けになるだろう。たぶんそれらの同一性は、合成写真を成立させることによって決まるだろう。
 自己についての広範な記述を残した最初の心理学者ウィリアム・ジェームズは基本的に異なる自己についての2つの接近法を同定している、すなわち1つは知者・遂行者としての自己であり、いまひとつは知られた対象としての自己である。ジェームズは知者としての自己は行動を理解することに対して価値がなく、それを哲学の領域に追放した。知識の対象としての自己は、彼自身に属するあまねき個人的見解のようなものから成ると考えた。これには物質的自己、社会的自己、精神的自己が含まれる。物質的自己とは彼自身の体の付加物、彼の家族、彼の持ち物へと拡張された自己である。社会的自己は個人について他者が抱いている見解を含む。精神的自己は個人の感情、欲望を含んでいる。自己のすべての側面は、高い自尊感情、幸福感、低い自尊感情、不満足を引き起こしうる。明白にジェームズは自己というものを統一性を持ち、それと同程度の分化をし、自尊感情に仲立ちされた感情と自己は緊密に連合しているものと見る。
 クーリー(1902)は、自己を「常識的な会話において1人称単数I、my、me、mineといった代名詞によって示されるもの」として定義した[p.136]。彼は個人によって自己だとラベル付けされたものは、自己ではないとラベル付けされたことよりも、強い情動を生み、自己だとラベル付けされたものは自己が同定されうるような主観的感情を通してのみ存在する、ということに注目した。ひとが出来事を制御することによって、あるいは自分の体は他の人のそれとは異なることを弁別することによって感情状態が生ずると彼は信じていた。他者が自分を知覚するように彼が彼自身を知覚することに準拠した「鏡映的自己」の概念を彼は導入した。クーリーは、明らかにこのプロセスがおおきく普及していると仮定した。それは、ロバート・バーンズという詩人が教会で逃げ回る虫に這われてのったりそったりしている貴婦人を観察しているときに詠んだ詩よりもである。
 
         神よ、人がわれらを見るごとく、
        己れをば見る力をわれらに与えたまえ。
        そが多くの過ちと、愚かなる思いから、
        われらを解き放たんことを。
        飾れる衣と歩みに欺かれ、
        心奪われることのなきよう。
 
 
 ジョージ・ミード(1934)は、クーリーの鏡映的自己を拡張した。他者が自分自身にどう反応するのかという個人的な関心のなしえたものとしての社会的相互作用において自己概念が発生する、と彼は書いている。ひとが調和的に振舞いうるような他者の反応を予期するために、個人は彼らがそうするように世界を知覚することを学習するのである。「一般化された他者」が確立されたアクションに如何に反応するかを具体的に推定することによって、ひとの行動が圧力なしに安定した、ガイドすることに資す内的規則の源泉を人は獲得するのである。ミードによれば、社会的役割とおなじだけの諸自己がある、ということになる。いくつかの役割は相対的に広範で熟慮を要する重要性をもち、他方場面に特殊でパーソナリティ変数としては大して重要でないものもある。
 サリヴァン(1953)にとって自己とは、クーリーやミードと同様に社会的相互作用のなかから生ずるものである。だがしかし、クーリーやミードとは違ってサリヴァンは大社会よりむしろ、重要な他者、特に母親像とこどもの相互作用を強調した。サリヴァンはセルフシステムを、「不安なできごとをさけるか最小化する必要によって存在することを要請する教育経験の体制[p.165]」だと同定した。このことを正確に言うと、彼は重要な他者によって賞賛是認されるようなしかたで満足を達成するのを促進する母親の価値・禁止を子供は内面化するのだということに注目している。承認、非承認の傾向の下位システムが「よい僕」「悪い僕」の枠組みのなかで組織化される。不快な感情を避ける必要性がセルフシステムの主要な機能だということは、サリヴァンにとって明白なことなのである。
 レッキー(1945)は自己概念を人格の中核だとした。ある箇所で彼は人格を「互い一貫した価値の体制[p.160]」だとした。人格の組織は新知識の連続的同化、古いアイディアの拒否・修正を含むダイナミックなものだと考えられた。すべての概念がが統一的システムにと組織化され、その保存は本質的である。人格の中核としての「自己概念」が、すべての人格組織に「自己概念」が受け入れ可能かを決めるのに重要な役割を果たす。統一化への努力がひとつの主要な動機である。パーソナリティ組織への脅威は苦悩の感情を生ずる。
 スニッグとコームズの見解はレッキーに似ている。彼らは「自己概念」を「ひと自身の定義され公正に安定した性格特徴として個人が分化させた現象論的場のその諸部分[p.112]」と定義した。それゆえ、彼らは安定した人格特徴と同様にできごと的で変化に富む人格特徴を含む広範な組織の中核だとみる。
 ヒルガード(1949)はアメリカ心理学会会長講演の中で、「推定された自己の概念」に支持をもたらす3つの証拠を同定した。モチベーションのパターンの連続性、動機の遺伝学的パターン化、そしてひとの重要な動機の対人的本質である。モチベーションのパターンは人が自分自身を年を経ようが表面的に変化していようが同一の自己だとみなすことに負う。遺伝類型学的な動機のパターン化は、同じ動機を異なった行為で満足しうる、また、ある動機は他のもので取って代わりうるということに依拠している。また、ヒルガードは防衛機制はその実在のために「自己概念」の強力な証拠を与え、防衛が必要なときに自己のある相を必要とする。残念なことに、「自己概念」の仮定への興味ある事例をなしえたにも拘らず、ヒルガードはそれを定義しようとはしなかった。
 ロジャーズ(1951)は自己を「組織化されており流動的では在るが一貫した、「I」や「me」に付与された価値とあいまってそれらにおける性格や関係性の知覚的パターン[p.498]」と定義した。ひとが制御なしえていると信じていることやひとが知覚しているひとの「自己概念」の性格性のみを「自己概念」は含む、と彼は述べている。基本的な要求は、自己維持と自己高揚である。自己概念組織への脅威は不安を生む。もし脅威が防衛されないと、崩壊的非組織化を招く。彼は明白に、レッキーやスニッグとコームズに近い見解を持っている。                                
 オールポート(1955)は既述のとおり、自己より「プロプリウム」を好んだ。中心的統一の感覚に資し、中心的重要性とひとがみなしている諸側面から、「プロプリウム」は構成される。他者が自我関与しているとみなしていることの重要性に注意をひきつけるものである。被検者が十分自我関与していないので心理学的調査がしばしば試行的になるということは、彼にとって驚くに値しないのである。「プロプリウム」は以下の8つの属性を持つ。(A)身体的自己の知覚(B)時間的連続性の感覚(C)自我高揚あるいは、自重感情の要求(D)自我拡張あるいは、身体境界を超えた自己の同一視(E)理性過程あるいは、外的現実に伴う内的要求の統合(F)自己像あるいは、知識の対象としての彼自身の知覚と評価(G)「知る過程」にあるものとしての、あるいは、実行執行者としての自己(H)占有の努力あるいは、緊張を減ずるよりは増ずる、また知覚を拡張し目標行動を捜し求める動機、である。後の著作(1961)でオールポートははっきりとジェームズに同意して知識過程としての自己は心理学の対象外であると決した。
 サービン(1952)は、行動は認知構造のまわりに組織化される、と述べている。このようなひとつの重要な構造が自己の構造だとする。他の諸構造がそうであるように、自己は階層的に組織化され、低次から高次の構成へという向性で通常変化に従う。自己の下位構造のなかには身体的自己、社会的自己を含む経験的諸自己がある。「私」あるいは純粋我は個人の総合的認知組織、ある時間上の瞬間の異なる経験的諸自己の交差場として現れる。    
 「自己概念」の本質についてさまざまな立場からの見解を振り返ってきたが、我々はいまや諸家がそれの属性として書いた諸性格の要約をすべきところにきた。それらは以下のごとくである。
 
 
1.(「自己概念」は)広範な概念的システムの中に含まれる内的に一貫しており、階層的に組織化された諸概念の下位システムである。
2.それはたとえば身体的自己、精神的自己、社会的自己といった異なる経験的自己を含んでいる。
3.それは経験によって変化するダイナミックな組織である。何か成長原理のようなものをあらわしながら増大するインフォメーションを同化する傾向を示し、また変化を探るように見える。ヒルガード(1949)は、「統合された」というより「統合している」という性格がある、と述べている。
4.それは経験から発達し、ことに重要な他者との社会的相互作用において発達する。
5.個人の機能にとって本質的なことは、「自己概念」組織維持である。もし「自己概念」組織が脅威にさらされると、個人は不安を感じ脅威から自らを防衛しようとする。防衛がうまくいかないと圧力を感じ、総合的非組織化によって終局的となる。
6.セルフシステムの諸側面は、ほとんど他の要求に比較して基本的な自重感情と結びついている。
7.「自己概念」には少なくとも2つの基本的機能がある。ひとつは社会的相互作用を含む特別な経験、つまり経験データを行為と応答の予測可能な流れにと組織化することであり、2つめに、不承認や不安を避けながら要求を満足させることを促進することである。
 
 
「自己概念」の「自己理論」としての同定
 
 ジグゾーパズルのピースが出揃ったところで、完成画像の本質を決することが今や可能なはずである。あるいはなぞなぞの好きな方向きには、次のような問題を呈することができる。階層的に組織化された内的な一貫性を持つ概念の構成とはなにか、なおそれ自身知識の対象であり、知識を同化するものとはなにか、安定性の程度を維持しておりかつダイナミックなものはなにか、統合され、かつ同時に分化しているものとはなにか、現実の世界で問題解決の必要を持つものは何か、突然の崩壊に従属し、それが起こると総合的非組織化をきたすものとはなにか。今や答えは明白だといえる。答えがそうでない場合にも、「自己概念」というのは「自己理論」だと提唱したい。個人が彼自身について経験するもの、機能するものとして暗黙に構築したものが「自己理論」であり、彼の重要な経験諸般すべての重視をもって彼が抱いている広範な理論の一部なのである。よってそこには、世界の本質、自己の本質、それらの相互作用についての枢要な諸仮定システムがある。ほとんどの理論と同様、「自己理論」は目標達成のための概念的道具である。「自己理論」の最も基本的な目的は人生における個人の快苦の均衡の最適化である。ほか2つの基本的機能は前一者と関係なく自重感情の維持の促進と、効果的に対処されるような仕方での体験データの組織化である。これらの機能は次に述べる仮定から派生したものである。つまり、そのもっとも基本的なレベルでひとの行動は生物学的に快苦の原理、急性分裂病の場合のような総合的で突発的な非組織化を生む条件分析から組織化されるのである。私の唱導する立場は、明らかに非常に多くケリー(1955)の見解と共通するものである。それは、毎日の生活で起こる問題を解決する試みのビジネスにとりかかる個人は、非個人的な問題を解決しようとする科学者の理論と同じ仕方で進捗する、というものである。どちらも連続的に仮説を立てて検証することにより、それによって彼らの概念が修正される。どちらも広範な図式のネットワークへと組織化させる図式へと観察が理論に組織化される。もし体験がそのように組織化されていないと、数え切れない葛藤をともなう錯綜とした世界で効果的に行動することは不可能である。さらに、そのようなシステムなしに、行動をガイドするために喚起さるべき数限りない隔離した小部分によって圧倒されてしまうだろう。
 ケリーは「自己概念」を仮定せず、セルフとノンセルフの区分のもつ価値を与えたが、それは経験データがセルフシステムや世界システムに組織化されうるということが個人の総概念システムにおける普遍的で高位の仮定だと推測されうるということである。普通なら無視不可能の評に特有で偏在の「自己−非自己」の分化の合図が存在するだけでなく、区別をすることには圧倒的な利点があるのである。ひとつに、分有された現実のなかで振舞うために、何が共通の経験で何が主観的かを区別することは必要なことなのである。2つめに、自己と非自己の区別は彼の行動を制御する上で有用である。3つめに、社会共同体のなかでひととして調和的に生きてゆくためには、たとえば自己と非自己の区別なしには意味を成さないような、責任の概念を持つことが必要である。生活においても科学においても自己の主観的世界を非自己の客観的世界から区別することは重要であることは明白である。しかしながら、どこのひとでも科学者でもそれ自身の目的のために客観世界を区別する必要があるわけで、ひと、ひとという存在にとって、個人的な要求とか幸せの満足に資する程度に応じてのみ区別は重要なのである。それゆえ、私の提唱する理論は、ケリーがほとんど重要性を認めていなかった情動を中心的に重要だとする点で異なっている。
 
 
「自己理論」の構造
 
すべての理論に共通する属性
 
すべての理論は外拡的か、節約的か、経験的に妥当か、内的に一貫しているか、検証可能か、有用かの程度に応じて評価されうる。したがって、これらの属性それぞれについて個人の「自己理論」を検証することは有益なことである。
 
外拡性
 
他の条件がすべて同じなら、より外拡的な理論がよい理論である。他の諸理論にとってと同じく個人の「自己理論」にも当てはまる。外拡的「自己理論」を持つ人はさまざまな大きな状況に対処するのに利用可能な諸概念を持っていることだろう。彼は狭い「自己理論」を持つ人よりも彼の感情・能力・人格性格をより多面的に知覚するだろう。したがって、彼は新しい体験に対してよりフレキシブル(柔方的)で開かれているはずである。狭い「自己理論」を持つ人は生涯を相対的に単純化した仕方で経験するだろう。彼にとっての物事は黒か白かになりがちであり、彼は性格的に抑圧と硬さを示すだろう。
 よい理論は外拡的である。付加的なデータを利用可能にするなどのより分化し外拡的になる。貧しい理論は制約されたものであるだけでなく、制約的である。他の言い方をすれば、狭い「自己理論」を持つ人は、世界と彼自身の構築の仕方を限定することを通して彼がなした安定性を乱す描かれた推論を避ける傾向にある。
 なぜ個人が限定された狭い「自己理論」を持つのかには少なくとも3つの理由がある。子供や精神疾患の場合がそうであるように、適切に分化し汎化する認知的能力に欠けている場合がある。2つ目に、ストレス下で全ての理論が非体制化に対する理論の防衛をするように制約するようになっていく。強い脅威にさらされた人間は特にもし彼らが非体制化の閾値が低いと、限定された「自己理論」を持つことが期待される。ある時強い不安を抱き「自己理論」を制約することによって脅威に対応することを学んだ個人はもはや高い不安などないのに構成上の小脅威にも反応し続ける。「自己理論」は経験から派生するので個人が呈する体験の拡散性は、「自己理論」の複雑さと範囲を決定する臨界的要因である。限定的提示が変化への抵抗をなさないゆえに狭い「自己理論」をもつ人は不安と非組織化から自らを防衛する個人よりも狭い「自己理論」を持つにいたるのであろう。
 
節約性
 
 他の条件が同じならば、より節約的な理論がよい理論である。広く統合され十分に組織化された諸副仮定、諸仮定により節約性は達成される。総体的に節約性を欠く理論は、予測さるべき行動につきそれぞれ分離した仮定を必要とする。そのような理論には理論がないと言い得よう。人格の分野で、節約性が低い「自己理論」は、安定性を欠くといわねばならない。一般的な案内原則あるいは価値を欠くことの結果として、そのようなひとの行動は完全に状況依存になる。反対のひとは節約的な「自己理論」を期待できよう。そのようなひとは基本的な価値、高位の一般仮定の現存の結果としての安定性を示し、同時に柔軟で正しく分けられた低次の命令仮定に負うであろう。考慮すべき関心のなかに他の要求要因、たとえば経験妥当性だとか検証可能性を犠牲にして節約性が達成されていることがある。これはパラノイアなどに例証されるが、単一のテスト不能な仮定が対立する証拠の広さを説明に用いている場合である。だから、パラノイアのひとは虐げられた欺瞞を持ち、自分を欺こうとした試みを友好的なポーズを見せるだろう。明らかにあまりにも多くのことを説明しようとしてなされた非質的な仮定は悪しき仮定である。
 
経験的妥当性
 経験から一般的に派生した低次の概念構成体は高位の仮定に同化される。理論が本質的に帰納的なものであるとするならば、いかにして現実を表象し損ねるのであろうか?ひとつには、データにまたがる推論の拡張と推論の過程が不正であることがある。二つ目に、ほとんどの人間の学習は、直接というよりは代理的経験によることが挙げられる。代理経験と直接経験とが対立するとき見失われ、環境に依存するのは後者のほうである。サリヴァン(1953)、ロジャース(1951)のどちらもが強調しているのは、児童の自分の経験を誤って表象させるよう教える重要な他者への依存を重要な他者が用いるやり方である。もし母親や兄弟への怒りのラベリングが愛情のお預けをともなうように応答し、受容の前状態にあると、憎しみの変わりに愛を学習してしまいうる。結局体験というものは直接であろうが代理であろうが個人の「自己理論」に概念が同化するかどうか要因であるばかりではない。考えねばならぬ他の要因のなかには、内的一貫性への要求とか個人のセルフシステムの組織維持への要求がある。これらの他の条件が満足されるためには経験的妥当性をときには犠牲にする。
科学理論であろうと「自己理論」であろうと、完璧なまでに妥当な理論というものはない。したかがって、より重要な疑問は、なぜ「自己理論」の妥当性が低いのかよりもなぜある理論が自己修正的でないのかというところにある。ひとつの理由は、「自己理論」の体制がストレス下にあるとき新しい知識を同化しようとして危機を避け組織を存続するために個人は防衛的になるところにある。結果、ストレスが高かったり不安の状態にある個人は新しい知識の同化を避けると期待されうる。二つ目は、抑圧のために「自己理論」が自己修正的でない場合があげられる。もし個人があるラベルの使用の失敗、ある観察の失敗によって不安を逓減することを学んだとすると、効果上彼の間違った概念を正しうる経験を彼から締め出すことになる。これは、抑圧は個人が彼の非妥当的な概念を彼に必要な正しい経験から乖離するのである。
 私が他のところで見出したものとしてフェンツと私(Epstein,1967)によって指揮されたパラシュート時の不安についての調査の議論の中で、リアリティの最大の知覚はいつも欲せられるものではない、というものがある。最適の率で進歩することが不安の完熟をマスターするために、ペースを最適にして脅威を知覚することが必要である。全ての状況の中で個人は究極を極めるマスターは、古い側面としてのストレス状況を新しいストレス状況に臨まなくてはならない。もし選択の余地のないシューティングが始まったとするなら、個人は不安と非体制化に圧倒されてしまうだろう。この観察は「自己理論」が定率でのみ極端に不安を引き起こすことなしに確かな率を持つデータを同化しうることを結論として一貫して行われたものである。よって、効果的な防衛機制は同化可能な割合によって現実知覚を推進することを許すだろう。これは、不適な防衛機制が全てか無かの質を持ち、同時に現実性の完全な知覚を妨げ、個人が圧倒されてしまうことを許すものである。
 
内的一貫性
 
 理論を破壊する最も効果的な方法はその理論の枠内で矛盾を例証することである。分裂病の事例史は、「自己理論」の総体的非組織化が、人を愛することに反対する敵意やや同性愛衝動のように前もって否定されたいくつかの局面の知覚へと緊急事態によってもたらされるものである(Kaplan,1964を参照のこと)。明らかにそれは非組織化をもたらすほど非一貫ではないものの、非一貫の知覚は生まれる。個人の「自己理論」が個人の非一貫を否定できるほど長く個人がストレスを感じることなく相対的に基本的な非一貫性さえ考慮すべきものとして含みうる。無論、このような非一貫は可能なストレス及び非組織化のもはや否定のしようのない状態が生ずる可能性がいつでもありうるような可能な源として表象される。
 
検証可能性
 
 「自己理論」は科学理論がそうであるように検証可能なら現実事象に対処するのに有益である。前にも書いたことだがよい「自己理論」というのは体験の増大にあって妥当性の増大を見るものである。検証不能な概念は体験によって改善されないことは明らかである。検証に開かれていない概念を個人が楽しむのは、それゆえなぜだろうかという疑問がわいてくる。答えは、そのような概念は非妥当から自らを防衛するからである。「自己理論」における不安において概念が実証されないと考えると大きな不安にたいして「自己理論」を維持することがより重要になる。彼の「自己理論」が重要な仮定を非妥当にするその現実に疑念を持つ理由を有する個人はそれゆえ現実の検証から概念を隔絶する強力な動機付けをもつことになる。別の言い方をすれば、ある環境下で幻想が現実より好みで実際そうである場合、個人は自分の主観的な概念をテストすることを避けるのである。平凡に、全てのひとは不安を避けるように動機付けされている場合には、ある程度非妥当から彼らの重要な概念を遮断するものである。
 
有用性
 
 「自己理論」はそれ自身の存在に目的があるのではなくて、他の理論と同様問題解決のために展開される。いつも注目されてきたことだが、「自己理論」の基本機能は快適な快苦のバランス・自重感情の維持、体験データの同化である。よい「自己理論」は効果的な機能を結果し、貧しい「自己理論」は不適合なものである。その機能のどれか一つ「自己理論」が結果できなかったとき「自己理論」はストレス下におかれ、もしそれがあまりにも大きいと終局的な崩壊を起こす。これに相当する主観的体験は非組織化の状態である。分裂病の事例史(Kaplan,1964を参照のこと)は、未来への希望がなく不幸が長く続くことや経験の不同化、失敗感によって先行されたフラストレーションの上昇や終局的な非組織化の状態が示されることによって示される以上のような分析を支持する。ストレス下での「自己理論」崩壊は、不適応の経過ではあるがそれ自身より効果的な再組織化がされれば適応的になりうるものである。分裂病者における自己構造の崩壊へと続く恐れと無能は分裂病の自暴自棄な要求は非現実的で人間行動における「自己理論」の重要な証拠を供するとはいえ、新しい構造の創立を示すものである。
 
 
仮定の本質
 
「自己理論」の構造から推察される仮定
 
 個人の行動を指揮する諸仮定を含む「自己理論」を個人は持つ、という仮定があるとすれば、個人の行動をもし理解したいならば、彼の仮定システムを再構築する必要がある。いかにしてこの課題はひとにとって可能か?いくらかの人々が持つ仮定の他の領域と諸仮定をすべてのひとが持つ確固とした領域があると考える。いくつかのより一般的な領域は「自己理論」いわば快苦の快適な均衡、体験データの同化、自重感情などの「自己理論」の機能を分析すれば同定されうる。よって、個人おのおのはこれらの変数のうちいずれでも個人の立場を査定するような仮定を持つと推測されうる。これらの仮定群下で組織化したとするならば一般性の小さい方から諸仮定は階層的に配置されるであろう。たとえば、自重感情全体の評価の仮定下で2番目に位する一般能力、道徳的自己承認、力、愛の価値などに関係付いた仮定があることだろう。これらの諸仮定は少なくとも西洋社会では思うに全てのひとに共通である。低い順序の諸仮定は一般精神と身体能力を含む能力下に組織化される。最も低次の諸仮定は特殊能力の査定を含む能力下に置かれる。なにかひとつ低次から高次のものへなるときには、個人の「自己理論」の維持の重要性が高まる。生活における楽しみから派生した個人の能力の評価、経験の同化、彼の「自己理論」の総体的安定性を決定する自重感情などの総和があると仮定できる。結局、ストレス最小時の高次仮定は次のようなものになるであろう。「私は基本的に値打ちのある人間です」「私は私がどうしようとしており、何を期待されているかを知っている」「私は幸福な人生を導きたい」「私は高い能力の持ち主です」「私は自分が好きだし魅力があると考えている」「私に用のある人は私をとてもよく扱ってくれる」多大なストレス、つまり非組織化に舵を奪われてしまった状況下にある人の「自己理論」の他人に対する対応的仮定システムは次のような言葉を導くだろう。「私は価値のない人間です」「生活に意味がなく私を頼る人はいない」「私は決して幸福を知らないであろう」「総体として失敗の塊であり、無能です」「私は見下げ果てた人間だ」「誰も私のことなんかかまってくれない」。
 
 
感情から推察される仮定
 
 個人の経験を組織化している概念は、そのことを彼から聞きだすことであるという概念の同定アプローチがある。ロジャーズと同僚たち(ロジャーズとダイモンド,1954を参照のこと)はQ分類法を擬似正規分布曲線において分布する自己記述においてひとびと自身による評価を求めた。ケリー(1955)は個人が好きだとか違うとか3者――母・教師・親友――に比較できるように質問し同定するのに用いられる概念を分析した。どちらの接近法も個人に意識的に彼が用いる概念を同定できるように求められた。どちらの接近法も個人が「自己理論」を重要な仮定であると知覚する必要がないという考えをここで提示する立場から満足のいくものではなかった。幸運なことに、感情と認知の関係が個人の重要な概念を同定する間接的方法をもたらした。感情が認知を推論しうるように用いられる2つの方法である。ひとつは大部分で少なくとも人間の感情は事態の解釈に依存するという仮定から導き出された(Arnold,1960;Epstein,1967,1972;Lazarus,1966;Schachter,1964を参照のこと)。ゆえに、もし私が誰かが私に悪意を持っており、罰せられるに値するという解釈をしたならば、私は怒りを感じる。もし私が恐るべき状況在るならば私はそれを避けようとし、恐怖を感じる。もし私が愛情あるいは私の幸福に資す何か他の要求の満足を奪われ、一生満たされる望みがないならば、私は憂鬱になる。愛やそのほか何か私にとって重要な何かが私に代わって誰か他の人に与えられるならば、私は嫉妬を感じる。私が作りたいと思う点は、各感情に認知が潜みひとの感情的性分を知ることで彼の主要な仮定のいくつかが再構築される可能性があるはずだ、ということである。これはもちろん関心を受けることが増大している分野――認知と感情の関係についての精細な知識を十分仮定する。
2つめに、たぶんより豊穣な仮定を推論するときに用いられる感情の使用の仕方が仮定を推論し、感情が起きたときに個人が巻き込まれなければならなかったことの重要な仮定、感情が起こるに対する過程が続かなければならないということである。さらには暗い感情が起こるときには「自己理論」のいずれかの機能に妨害や脅威があるものである。脅威のなかにはセルフシステムの、自重感情の、快苦の快適なバランス、同化のキャパシティが含まれる。さらに、陽気な感情はこれらの機能が促進的か期待通りのときに起こる。強い陽・陰の感情、個人の「自己理論」の機能の維持を含み持つという仮定はより重要である。よってもしある女性が美人コンテスト前強い予期不安を登録時に持ち、優勝し損ねると深刻な不幸に見舞われ、重要な学業試験に失敗してもちょっとした反応しか示さないとすると、彼女のセルフシステム内においては美の方が学業成績より重要だと推察されるわけである。これはもちろん自明なことではあるけれども、もし誰かが彼女に尋ねたとして彼女はうまく反対の価値を報告するだろう。私は、感情を生むような状況を含む毎日の生活における感情の体系的研究が人間行動の知識の前進にとって見込みのある接近法であり、一般にそのような接近法は彼らの彼ら自身の知識を前進させる、彼らにとって効果的に使用されると信じている。私の学生と私は最近、時間を延長して特別に構成された基礎の上に立って毎日のひとびとの感情の記録をとる研究計画に着手している。データはまだ公式には解析されていないが、準備段階での結果は劇的にエキサイティングである。横たわる暗黙の認知と感情の関係上の新しい情報を興味深く提供するテクニックのみならず、個人の自分自身のデータのそのような関係を知覚することは高度に治療的であることを我々は見てきた。
 
 
経験我
 
 個人の仮定システムの構造を考察するとき、私は総体的セルフシステムに関係付いたいくつかの一般的仮定の本質を議論した。しかし、はじめに書いたように、セルフシステムは統合されているとともに分化している。このことは、構造の考察においてサブシステム、あるいは異なる経験我の考察を必要とする。このサブシステム・経験我は一般的セルフシステムに影響しているのと同様に影響されたにも拘らずある程度の独立を保持している。結局、自重感情が総体的に同じレベルであるということは、身体的自己への高い評価と、反対に推論された内的自己の低い評価によって達成するのであろう。さらに、セルフシステムの発達を研究するために身体的自己・推論された内的自己・道徳的自己のサブシステムの連続発生を考察する必要がある。
 身体的自己によって、私は個人の生物学的自己、彼の属性、そしてこれらの個人、集団、彼が同定する象徴を意味する。推論された内的自己はその個人の心理学的自己あるいは人格の全ての局面に準拠する。それは個人の認知、意識、無意識――能力・特性・望みごと・恐怖・及び他の動機付け的感情的傾性――を含んでいる。他の言い方をすると、推論された内的自己は「自己理論」の大半を表している。それは道徳的自己を含んでおり、個人の自己評価反応という副部分――ひと自身の個人的諸局面への評価的反応と同様彼自身の価値ある人間としての総合評価――を含んでいる。
 自己の異なるサブシステムへの準拠にともなう体系的な議論は時間が許さない。私の目的はより拡張的な分析が進展するというひとつの方向付けを示すことにある。
 
 
「自己理論」の発達的局面
 
身体的自己の発達
 
 子供にとって学ぶべきことは彼はひとつの、相対的に簡単な概念形式の行為――全人間身体の広範なセットにおけるひとつのサブセットであると彼が自分の体について認識せねばならない――身体的自己を有していることを学ぶことである。抽象的な思考のレベルでは明白にチンパンジー程度の能力が要求される。興味深い実験系列では、ギャラップ(1968)が2〜3回の鏡の提示後にはチンパンジーは他のもの向けられた行動とは反対に自分に向かっている様なしぐさを示したという。これは、まるでチンパンジーが鏡映像をみてもしかしたら彼の彼自身の出現だとみ、また、他のチンパンジーではないと認識して反応したことになる。低次の動物では子は10ヶ月以下で古典的な精神疾患を持つ場合、鏡に向かって他の何者かに向けられた行動が見られたという(Gallup,1968)。
 たとえば、他人の体――私の2歳になる姪を最近たずねたことによって提供された――と似た身体的自己を有することをいかにして訓練として方向付けるかという問いがある。ドナは家族全員とダイニングルームのテーブルに座った。その場所を占めるにあたって彼女の母は、「おばのアリスはどこ?指し示しなさい」。ドナが指し示すとみなから賞賛された。それから何分かして長い間かけて全ての誤りが排除されると、誰かが言った。「ドナを指し示しなさい、ドナはどこ?」この問いはそう単純なものではなかった。ドナはテーブルを見回すとドナを見出せず、ランダムに指し示し始めた。このとき、彼女の母親は言った。「あなたは誰がドナかを知っているはずよ、みんながドナと呼んでいる小さな少女を指せばよいのよ」。明らかな洞察のひらめきがドナには走った、ためらうことなく自分自身を指差したのである。このような課題は明らかに概念形成の訓練の例であり、ブロックにラベルを貼るように用いられているようだ。
 身体的自己はもちろん直接訓練からだけ学ばれるのではない。ひとが他のひとびとと共通な、また丁度彼らがたがい異なりあう異なる性格をもっていることが示しうる多様なキューからそれは推論される、と考えられる。したがって、子供が手を有し足を有する――家族の成員である犬や猫の手足より他のひとびとの手足により似ている――ように見えることは自明のことなのである。人が自分では見得ない目であるとか鼻であるとかは、もし鏡がなかったらひとにはみえない仕方で多分それらを対応付ける、ひとがそうしうる全ての仕方でひとがひとに対応付けている場合でも自分を見ることはできないだろう。さらに、見得ないものは他の感覚、他の推論によって見出しうるであろう。結果、ひとは人は鼻を触ることで、2つの目の現存は一回の目の瞬きをすることで推論されうる。加えての証言は、人は他人のような体を持っている、また自分の体は自分に固有のものだということも挙げられる。諸要因のうちこの結論に資すものとしては(a)特質性――他人の腕がピンチな時よりも自分の腕の場合の方が疼く(b)連続性――ひとの自分の体は他の誰の体もともなわない(c)統制性――自分は他人よりも自分の四肢を自分が望むように簡単にかつ独立してうごかせる(d)二重感覚――人が自分自身に触るとき、「触っている」という感覚と「触られている」という感覚――人が他人の体を触るときには「触っている」という感覚しかない。
 いくつものキューが身体的自己を推論するのを支持するように利用可能であるだけでなく、概念を定式化するのに強力な強化子がある。ひとつには、考慮することに対する社会的是認非是認がある。子供は自分の考える自分と何か違う、暗黙のあざけりがたとえば少年が自分は犬だと考えるような場合に待っている。2番目に、もし体験が安定した予測可能なシステムに体制化されるとすると自己と非自己の区別が必要になる。3番目にこのような区別は効果的に行為を統制するのに必要である。
 
 
推論された内的自己の発達
 
 ひとたび身体的自己が発達すると、それはそれと類似した仕方で進歩する推測される内的自己の発達をうながす。概念能力のレベルが、要素がより抽象的で推論のレベルはそれほど高くない身体的自己よりも大きいと考えられる推論される内的自己の発達を要する。丁度あるひとびとが背が短くあるひとびとは背が高い、声のうるさい人ソフトな人、髪の毛の長い人短い人であるように、ひとびとは行動性格においても友好的・攻撃的・助力的など異なることは明白である。物理的な人々の同定においては、ひとびとのばらばらな性格傾向の筋を通しかねるが、形態を認識する。同じことが人々のパーソナリティについても言えると思う。今やもしひとが潜在する人格属性の安定したパターンをその人格の反復によって推察するなら、ひとは身体的自己同様人格的なアイデンティティを持つと仮定できるだろう。それにつづいて、ひとがまたパーソナルアイデンティティを持たねばならないことになる。他の原典の内的自己の推定は経験の連続性の感覚・自我関与・脅威に対する自己の存在のいくつかの内的側面の防衛の必要・表現する必要のない潜在する動機の知覚・自動的に自己評価する知覚の傾向・自重感情と結びついた感情の知覚、が含まれる。これらは全て非常に現実的な他者による知覚によって見える身体的自己とは異なる内的自己の実在を含意する。
 たとえば彼が覚えてもらいたいひとびとの面前で屈辱を与えられたときのように、ひとの自重感情が深刻に傷つけられたとき、個人が持つ体験について考えてみよう。このような体験は急性な心痛になりがちであり、夜眠ることに妨害的であるし、可能な生活時間、何ヶ月にもわたって影響する。体のどこにこのような痛みは住み着いているのか?身体的自己に場所付けできないのでこのような体験は、身体的自己よりも重要な自己のいくぶんの非物理的局面の存在を示唆するものである。同じ議論がポジティヴな体験についても成り立つ。何か彼にとって重要なことをやり遂げたために喜びの感情を人は体験するが、このような快的感情は身体的自己のどこに住むのか?快的な身体的刺激とは違って、身体的自己には帰せない。よってそれは非身体的自己の存在を示唆する。身体像の存在を仮定するとひとびとが具体的なイメージで思考する性癖それ自身のアイデンティティを表す何かが身体内にあって、それは観察され、体験の同化と行動の導出をする概念組織化の階層としてというよりはむしろ精神的胎児と概念化されるようなものがあっても驚くには値しない。この説明はなぜ魂のなかの信念がひとの歴史を通じてこう広範に行きわたってきたか、を説明する。
 挙げられるであろう質問に、どんな条件で推定される内的自己の発達が妨げられるのか、というものがある。そのような状態のひとつに、そのような感情が内的自己を推察するのに重要なソースをもたらす統制感の欠如が考えられる。さらには、推定された内的自己がその機能としての経験データの同化、快的な快苦の均衡・自重感情の維持を持ってから個人をこれらの機能の成就から妨げる推定された内的自己の発達を阻害するようないくつかの状態へと続く。確たる環境下で推定された内的自己は個人に対してそれが不快な快苦の均衡に資すような損傷を受けるかもしれない。子供が重要な他者の価値を内在させるとすると彼自身を憎むような場合を考えてみてほしい。さらには彼が何かし損ねるとき、希望のもてることにだけ注意する場合を考えてほしい。我々はある状況を考えている、その状況とは発達すべきセルフシステムが個人の福祉や低い自重感情、不快な快苦の均衡に反するようになる状況である。そのような環境の下でもしきわめて十分なセルフシステムの発達を全くみなければ、一方でさほどでない環境下でセルフシステムの拘束的でゆがんだ発達をみるであろう。
 
 
道徳的自己の発達
 
 身体的自己と推定された内的自己は体験を組織化する概念的道具としての有用性のために発達した。お互いを判断したりしない世界、承認を求め不承認を避ける理由のない世界ではそれらは価値を持つけれども、他方、道徳的自己は承認を求め、不承認を避ける必要のためだけに発達すると考えられる。子供ははじめのころを喜ばせる行動に彼は「よい」というラベルを貼り、不快な行動には「わるい」というラベルを貼り、さらには甘い食べ物を「よい」とし、苦い食べ物を「わるい」とする。この時点までは彼に道徳的自己はない、すなわち彼の唯一の関心事は快である。このような状態は明らかに長くは続かない。社会に適するためには、他者の願い事を説明することを教えられなければならない。文化伝播者としての両親は何がよくて何が悪いということを、もっと社会が受け入れてくれるということが彼の行動と同時にこどもが感じ、そうでないときにはわるいと子供が感じるように教える課題に直面する。意識的にであれ無意識的にであれ、直接にであれ間接にであれ、両親はそれに続く行動が非認的なときに愛情を保留し、続く行動が是認的なときに愛情を与える傾向にある。このあいだ、子供は次のようなメッセージを受け取る。操作的に定義すると「よい」は両親から是認されたもの、「わるい」は両親に非認されたものを意味するというものである。さらには「よい」は愛されているという感情に連合し、「わるい」は愛するに値しないものという感情に連合する。今や子供は彼が両親の価値を内面化したかそれを正しうるようなときに承認されない開かれた葛藤を避けることができ、彼は彼自身を評価者にし、彼の内面化された標準にしたがって彼が行為するときよろこびと愛される価値があるという感情を、罪にがんじがらめになっており、愛されるに値しないという感情を彼が標準をかき乱したときに抱くのである。結局、彼は、彼が意識的に統制しないうちにこれが自分の道徳的自己だといえるようなものを発達させるのである。
 道徳的自己の取り扱いにおいて特別な考慮を許可する問題に、はげしさの存在、自己の非合理的過小視あるいは自己嫌悪といったものがある。たとえば彼らにかかわりようのなかった深刻な罪の告白、あるいはどこの精神病院でもいる存在はしているが生きるに値しないもっとも見下げた人間だと不平を言う者などである。フロイトはこの問題を敵意の内面化で説明している。より特殊には彼は抑うつの人間を受け入れられない敵意の感情を彼の愛を否定したもの、適切には目的的でも非意図的でもなく有している。同定することによって、また内面化することによって愛の対象を失いある意味では個人は関係を維持しながら他の者に対する受容的で他の人間への敵意を自分自身に向け変えることもできる。この説明は一般性に疑念を抱くほど複雑である。私が提案したいのは、生活時間的に低いレベルの自重感情よりも自重感情の急な落下のほうがより損傷的である、ということである。これが真だとすると他者よりもによって低められた期待された自重感情が、生活時間的に大きな不快を妨げるように彼らを脱価値化するだろう。もっとドラマティックな場合心理的抑うつの場合のように無意識の部分もまた関与しているというフロイトの仮定は正しいと信じる。しかしながら私の説明では、受け入れられないという感情――必ずしも敵対的である必要はないのだが――が重要な他者の愛の喪失や非是認の予期を生む、というものである。しかしながら、重要な他者からの内面化された価値はひと自身固有の価値を規定する。したがって、ひとは彼自身からの承認の取り消しや愛にふさわしくないものとして自分自身に扱われる。さらに、低いレベルの自己評価によって彼は大きな苦痛やさらに低い自重感情から守られる。このことは、なぜ抑うつ的なひとびとが自重感情を上げることに抗うのかを説明する。高い一般的重要性のある先ほど述べたような相互反対に働らき愛情のバランスをとる2つの基本的傾向が仮定されたならばひとびとの自重感情は相対的に安定するという説明ができる、と信じる。ひとつの傾向は個人にとって願うところである自重感情の増大であり、高い自重感情ほどよい。もうひとつは、自重感情――自重感情の急落は特に悪いことである――を落とすことを避ける望みである。したがって個人は自重感情を減ずるような提示、非現実度が高い自分自身の評価を避けようとする。結果として最も心地よい環境下でさえ自重感情はゆっくりと増大する傾向を示すだろう、と期待できる。
 
 
含意
 
 「自己概念」を「自己理論」としてより適切に同定されたという見解で何が達成されるのか?サリヴァンの叙述――セルフはエゴでもイドでもなくダイナミズムである――より何か資すところはあるのか?私は以前の自己の理論が解決できなかった数多くの問題が解けると信ずる。また、同様に以下のような重要な含意がある。
 
1. 機能する個人としてひとびと自身の暗黙の理論を個人は持つということの認識によって、「自己概念」の本質上の現象論的見地を全ての心理学者に受け入れ可能な枠組みに同化することが可能となる。「自己概念」を「自己理論」として再定義するともはや非科学的だとして散会されることなく、魂を復権させ、誰も非科学的だとして退けることはできなくなるであろう。
2. 「自己理論」が主体としての、客体としての知られたことをいかにして解決するかという理論としての認識。全ての理論が知識を持っているが、さらに新しい知識の獲得に影響する。別の言い方をすれば、理論はデータの獲得に影響するが、影響されもしている。これにより、自己の遂行機能をジェームズやオールポートが薦めたように哲学に追放する必要がなくなる。遂行的自己は心理学の中で心地よい生を送ることができる。またさらに、資すと高く評価され「自己概念」についての以前の締め出すべき混迷した考えは追放され、事実その認識は「自己理論」の重要な属性なのである。
3. 内的な成長原則という概念――公平でよい意思を持った現象論者やヒューマニストの行為に導かれた――はひとたび個人は「自己理論」を持ち、それは少なくとも理論の性格をもちスコープから見える新データの提示の増大により――理解されやすくなる。
4. 情動とセルフシステムの関係は認知構造として同定され、「自己理論」は「働く理論」であり、そのもっとも一般的な機能が生活を責任的なものにし情緒的満足をもたらす。ゆえに、「自己理論」はが記述されるとき情動を切り離しては存在できず、大部分で逆もまた真なりといえる。
5. 他のあらゆる理論がそうであるように、ひとの「自己理論」は個人の「自己理論」は階層的に組織化された問題解決のための概念システムであるという認識は基礎仮定が誤っている・他の理由による理論機能の充足が不可能になるなど、総体的非組織化を説明しうる。それがドラスティックな再組織化を許容するとき、ある構成機能がドラスティックな非組織化に資しうることをも示している。
6. ひとの死に物狂いの諸概念・諸価値の防衛の要求は、たとえ如何に非現実的でも彼らがそうするのは「自己理論」の機能の必要のためでそう理解すれば理論があるに越したことはないであろう。
 
 そこで結論として、私は客観的枠組みに「自己概念」の現象論的立場を統合する試みの理論を示した。私の言っていることが本質的に正しいと思うならば人間行動の理解に広い含蓄を持つことだろう。私の示した「理論の理論」あなたの評価では高くなくとも、全ての理論が判断される外拡性・節約性・経験妥当性・内的一貫性・検証可能性・有用性という属性上でしかし私は少なくともそれが発見的価値を持ちあなた自身の仮定についてあなたの思考を刺激することを望んでいる。
 
 
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